「朝のリレー」 谷川俊太郎
カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
Morning Relay
While a young man in Kamchatka
dreams of a giraffe,
a young girl in Mexico
waits for the bus in the morning haze.
While a little girl in New York
rolls over in her bed with a smile,
a little boy in Rome
winks at the morning sun that colors the column capital.
On this Earth
always, somewhere, morning is starting.
We are relaying morning
from longitude to longitude.
Taking turns protecting Earth, as it were.
Prick up your ears awhile before you go to sleep,
and, somewhere, far away, you'll hear an alarm clock ringing.
It’s proof that someone has firmly caught
the morning you’ve passed on.
中学校の教科書にも載っている有名なこの詩。谷川俊太郎の作品です。
English 10のクラス課題で、母国語で書かれた詩を考察しプレゼンしろって言われたんですけど…、私、詩って苦手なんだな。
短すぎる情報、省略、抽象化された言葉。この何もかもが私の邪魔をするような被害妄想に陥ります。そもそも、詩ってどういうふうに評価しているのかが分らなくて、そういうあやふやなところがダメなのかなぁと。小説なんかもそうだけど、小説は情報量が多いからなんとなく読める。
ところが、小説は大好きな私には、詩そのものがどうしても詩人の自己満足の結果にしか思えないわけです。
さぁ、というわけでこの詩を考察してみよう。
まずは、この詩の主題。
「朝のリレー」なんてタイトルを付けるくらいだから、もちろん朝の情景を描いているわけです。カムチャッカ(ロシア)からメキシコ、ローマ、そしてNY。谷川氏は最初に南北の対比を、そしてつぎに東西の対比をしています。ついでに言うと、カムチャッカとニューヨークは夜の情景が、メキシコとローマでは朝の始まりが描写されているんです。
なぜ、カムチャッカの青年はキリンの夢を見ているのか。
なぜ、ニューヨークの少女は微笑んで寝返りを打ったのか。
メキシコの少女は、どんな思いでバスを待っているのか。
ローマの少年はなぜこんなに早起きをしたのか。
そこらへんを考えろ、想像力を羽ばたかせろ、と教師は言うんだろうけど、この部分が楽しくもあり私をいらだたせもするわけです。
さて、主題は「朝の情景をリレーすることで、私たちに地球が丸いということを思い出させる意図がある」、とこうでしょうか。…なんか、ひねた文章になってきたな。
さて、次に誰が、誰に向かって話かけているのか。
そんなの決まってます。詩人(=谷川氏)ですよね。次、次。
どのように、この詩はメッセージを私たちに伝えているのか。
これを考えるには、まずこの詩の持つメッセージを結論付けなくてはいけません。
そして、ここで問題が発生。
結局、詩人はどのようなメッセージをこの詩に込めたのでしょうか?
私は一番目のファクターで、「朝の情景をリレーすることで、私たちに地球が丸いということを思い出させる意図がある」と書きました。正直彼がこんなことを言わなくても、地球は丸いし、朝は始まるし、けっきょく、この人が言いたかったのってものすごく当たり前のことなんじゃないかという気がしなくもないのです。
でも、そこで問題になる(する)のが、後半部分の、「そうしていわば交替で地球を守る」という部分。地球を守る、というとずいぶん大仰だけれど、誰から地球を守っているのでしょうか? 何が地球を危険にさらしているのでしょうか? それに、世界中で目覚まし時計が鳴るのだっていわば当たり前の光景で、結局彼は何が言いたかったんだろうと、ひねた草島は考えるわけです。
どうしてこの詩人はこの詩を書いたのかあなたの意見を述べなさい、という問いかけに、「書きたかったから書いたんだろう。」そう言ったら、じゃあなぜ書きたかったのかを考えろと言われそうなので真面目に考えます。
まず、谷川俊太郎という人の人となりを知っておくことが、大事(な気がする)。
谷川俊太郎という日本を代表する詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家は1931年、哲学者である父のもとに生まれます。1948年、17歳の頃から詩作と、発表を始め徐々に評価されていきます。そのあとは、文学的に大きな評価を得ており、世界中にファンが存在するそうです。
…全く関係ない話しかなかったな…。
彼の父親が哲学者だったということを踏まえてみると、何か掴めるかなって思ったんだけど、よくよく考えてみれば彼の作風は幅広い。妙にひねたものから、子供の言葉遊びみたいなものまであって、考えれば考えるほど彼の意図が分らなくなっていく。そういえば、このひと「あしながおじさん」の翻訳もしてるんだよなぁ…。あしながおじさんかぁ…そういえばあしながおじさんと、主人公って最後ラブラブだよね。わたしあしながおじさんが大好きです。
あ、また話がそれた。
えっと、谷川氏が詩を書くのは、彼が彼自身を表現するためであって、それは詩人だけではなく、たとえば小説家や歌手や芸術家だってそうだと思うし、日常レベルでだれもがやっていることだと思います。ブロガー、なんてのもその一種かなぁ。その自己表現のなかに彼は自分の主張や感じたことを織り込んでいるから、人は共感したり反発したり、結局はそれも評価の一つだよなぁと。たとえ作品の中での主張が矛盾していても、それが彼の作風なのだと割り切ることだって出来ないわけではない、から。主張があればそれに対する反対意見があるのも当然で、賛成も反対も得られなかったらその人は公人としては失敗していることになるんだと思う。で、そう言った面でいえば今回、私はこの詩に対して妙な違和感を感じる。
誰が何から地球を守るのか。
エゴの極みだと思う。
個人的な感想を。
個人的な感想なんて上の設問でもさんざんぶちまけてるから、いまさら何ですけどね。
でも、プロの作品って、やっぱり私たちに何かを考えさせるものがあるんだよ。それがたとえ今このブログ上でひどい言葉とともに吐き出されるものであっても。笑 そういう意味で、やっぱりアマチュアとプロはなんか違う。信奉者の数って言ってしまえばそうなんだけど、今のようにネットで作品を公開しても反応なんてしてもらえないオナニープレイヤーも数多くいるなかで、ネットもない昔にちまちまやってきた人が評価されてるのは、なんていうか、ありがたいよね。
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